菅原工務店

  • 学び

  • LEARNING

学びのコラム〜地名〜 2.上戸……②鹿島台平渡の上戸

投稿日:2025.01.09

ここは高台になっており、上戸地名のエリアが比較的広い地である。鹿島台小学校のある地が「上戸1番地」であり、道を挟んで向かい側の大崎市鹿島台総合支所が「上戸下」の住所となっている。まさに高台から低地へという地形になっていて、小学校の隣には西要害、その下方には東要害の地名がある。

東要害には大崎市民病院鹿島台分院が建っているが、ここには東要害貝塚があり、鹹水性かんすいせいのヤマトシジミや牡蠣など海水に住む貝の化石が出土していて、さらに埋葬された人骨や縄文土器などが出土している。時代は縄文時代前期初頭頃(約6,000年前)から中期中葉頃(約4,500前)の貝塚であると現地説明会資料にある。

 

貝塚は、水辺にあるのが常識ですね。しかし現在の上戸付近には、やっぱり川も沼も存在していない。「はて?」どういうことだろうか。

右手が鹿島台小学校(上戸)で、左手が総合支所と病院側

それを解く鍵は、大字の「平渡ひらわた
」の地名と貝塚の存在、東要害・西要害の地名にある。ここは、古い時代にはやっぱり水辺だったのですね。貝塚の存在がそれを語っています。縄文の温暖化の時代には品井沼や海水が、深く入り込む大きな入り江の沿岸だったのでしょう。品井沼は干拓されてすでに姿を消しているが、鳴瀬川の注ぐ太平洋とつながっていたことを伝えており、旧品井沼沿岸には他にも石竹貝塚などがあります。それを裏付けているのが、東要害貝塚であり、約6,000年前頃から約4,500前頃までは海につながっていたことが判りました。その後の縄文海退により水は少しずつひいていき、沼や低湿地の残る地となったことを伝えています。

 

 

水辺であったことを伝える地名は他にもあります。東西の要害地名がそれで、これは最も古い史書の一つで、養老4(720)年に完成したと伝わる 『日本書紀』の中では、要害の文字に「ヌミ」とルビがふられています。「ヌミ」とは、「ヌは沼、ミはその岸」と解け、「水辺や沼のへり」を表しているので、当然アガトの地名が生きてきます。アガトの地名が縄文時代にあったというのではないのですが、8世紀にもそこは水際だったことを伝えていますね。

   

東要害貝塚の標柱と説明版

大崎市民病院鹿島台分院のある地は「東要害」の地名も、貝塚の存在も確かにそこが水辺だったことを証明しており、古い時代には交通手段として舟が使われ、その付近から陸地にあがる処が「上戸」だったのでしょう。

 

病院から鹿島台小学校への地形は今でも高台へ向かうようになっており、私が小学校へ入った頃には、校舎や保険センターの建っている付近は、まだ崖や山が残されていました。その山や崖を均して現在のような地形になっているのですね。上戸の地は今でも丘陵の端っこになっているので、上戸・要害の地名と貝塚が当時の地形(水辺の存在)をしっかり伝えているということでしょう。

さらに市民病院の東側には、現在でも大雨や大水のたびに洪水にあう「姥ケ沢」の地名があります。ここは昭和61年8月の台風10号による洪水に見舞われた際、住民が舟で往来していました。その後の大雨や豪雨でも何度も床上・床下浸水にあっています。ということは一帯が古代からずっと、確かに水辺だったのですね。この地名は、本来は山手の方に付けられた地名だったのが、沼や低湿地が水田に開発されたことによりエリアが広がったのでしょう。

 

さらにその東側には「福芦ふくよし」の地名が広がっているが、ここも古い時代には葦や芦の広がる低湿地や沼地であったことを伝えている。つまり、上戸の高台から東方には、地名が付けられた頃には、まだまだ水辺や沼・低湿地の広がる湖沼地帯だったことになり、そのために鳴瀬川の氾濫なども伴って洪水が起きやすくなっていたのでしょう。そのため、舟での往来が必要になり、「上戸」の地が生まれ、それが現在まで残されていたということでしょう。

 

こうした地では、今後も自然災害に気をつけなくてはならないでしょう。それを地名が私たちに教えてくれていたのですね。

 

西要害・東要害の地名は、もともと一つの地名であったのが、道が開削されたことにより分断されたのですね。小学校付近の信号のある辺りの地形は、まだまだ古い時代の地形が残されているので、通行することがありましたら確認してみて下さい。小学校側は丘陵(大沢沢丘陵)が続く高台で、病院の駐車場側や総合支所側がぐんと低くなっていることに気づくことができるでしょう。跨線橋などのある道は人工的に高く造られたのですね。

 

こうしてみると、私たちの知らない時代のふる里の地形や様子を伝えているのが地名といえるでしょう。その地名の意味や名付けられた時代の様子をシュミレーションしてみると、自然災害に強い地なのか、地震に弱い地質なのかなどを推測することができるでしょう。地名を付けた先人の方々は、当時の暮らしの様子を現代の私たちに正確に知らせていますので、地名はとても大切なものであることがご理解できると思います。

左が鹿島台小学校、道を挟んで市民病院分院。病院の地形は東に向かって低くなっている。

お話しする人

太宰幸子

日本地名研究所理事、宮城県地名研究会会長、東北アイヌ語地名研究会会長

この記事の担当者から

今回のコラムを通して、私たち大崎エリアの中でも、度重なる水害に悩まされて来た鹿島台。ここでも地名は鳴瀬川の氾濫の歴史を現在に伝えていることが分かりました。さらにはるか昔、縄文時代には品井沼は海とつながっていたことも。地名に込められた先祖のメッセージは実に奥深いですね。
先日、この学びのコラムがきっかけで、生まれた土地に興味をもち、太宰先生の書籍を購入されたというお話をお客さまから伺い、お仲間が増えたようで嬉しくなりました。私も引き続き学んで行きたいと思います。是非、ご一緒しましょう。皆さまの土地・地名にもご先祖さまからのメッセージが見つかるかもしれません。

代表取締役 菅原 順一

 

このコラムは、弊社発行の「工務店ミュージアム 学びのコラム(2024年12月号)」に掲載したものです。