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学びのコラム〜地名〜 勅使……大崎市三本木伊場野・大崎市松山下伊場野

投稿日:2026.02.06

今回は読者からリクエストをいただき、ナビをセットして向かった。ところが歩き始めて最初に出会った女性は、「ここは三本木ではなく松山だよ」とのたまう。ビックリだ!

 

手紙には確かに「三本木の勅使ちょくし」とあった。現在も旧道に三本木町・松山町の境界表示が高々と明示されていた。

旧道に掲示されている三本木町(左)と松山町(右)の表示

この地名は明治17年・18年頃にまとめられた「宮城県各村字調書」には記載されていない。手紙には、「洪水被害のお見舞いに、時の天皇が現地視察に訪れたことを記念し勅使にした」とある。勅使とは天皇の使者を呼ぶ。聞き取りでも明治天皇のお使いの人が洪水被害見舞いにやって来たので付けられたと話し、それは明治14年とか明治43年と食い違いがあった。

 

確かに明治43年(1910)8月の大雨で、当時の東京市を初め静岡県以東の広範囲で大水害があった。県内でも川の決壊や水田の被災・山崩れなど甚大な爪痕を残し死者も出ている。収入源を絶たれ北海道へ移住した家族も多かったという。ここも鵜の巣堤防が「40余間決壊し、埋没田ができ一大砂漠地を表した」とある。

 

さて、勅使はやって来ていたかどうかである。古い時代の現地は川の氾濫で生まれた地帯だったと思われ、今も鳴瀬川近くからの広い地である。水害があっても不思議ではなく、本来は似たような発音の地名だったのが、現在の漢字が当てられたのではとも危ぶんだ。

 

「チョクシ」の地名は、「まっこうから大水が越える、越す」と解くことができる。それを証明するがに地元では、「ここは、何度も大きな水増しがあった。そんな所へ嫁にやれないと言われていた」などと聞いた。すぐ傍の砂押は洪水で砂が運ばれて来たことからの地名で、そのため周りより土地が高くなっている」とも話していた。

 

勅使がやって来たということは一大事であった筈である。たくさんの関連資料を調べたが勅使派遣の記録は、三本木町誌の地名解の項にあるだけで他には見つからない。ほんとにやって来たのか、否と考える方が妥当なのではないかと悩む。

 

もしや河北新報になら載っているのではと考え問合せた。すると当時の新聞は全てマイクロフィルムに保存されており、すぐに探し出すのは難しく、プリンターも故障中でしばらく待って欲しいという。そうしてやっと届いた記事は目を疑うほど不鮮明で、新聞社の人が「とても読めないよ。それでも送るから」との言葉がよく理解できた。

 

やっと手にした新聞には、明治43年9月10日の「勅使一行来仙・本月14日の餘定よてい」の見出しで始まり、9月23日の「日根野(要吉郎)侍従の出発」で連載が終了していた。

 

勅使はやって来ていた。日根野侍従は被災した人々への天皇の慰問や見舞いの記された聖旨を携え、県南は白石・船岡や仙台、そして19日午前6時55分仙台停車場を発し松島着。人力車で粕川(現大郷町)へ向かった。役目が済むと松島へ戻り汽車で小牛田へ着き、人力車で松山へ向かい小学校で村民に天皇の聖旨を伝え、さらに下伊場野、三本木等に於いて被害の状況を巡視し聖旨を伝えた。その後も県北から石巻方面へ向かい22日かしこき目的を果たし、汽車で宇都宮へ仙台を出発したと締めくくられていた。

 

この記事により地元の人々が口を揃えて話していたことが証明された。間違いなく新しい地名だったのである。

 

では、それ以前はどんな地名であったろうか。80~90代の方々に尋ねても「さあねぇ」、「聞いたことないねぇ」の答えであった。残念ながら諸機関や資料にも残されていない。

 

最後に法務局を訪れ、旧公図の閲覧を頼むとそこの地名がわからないと出せないという。参ったなあ。困っていると土地の登記簿にあるかもしれないと探してくれた。ところがこれは全て有料であるという。

 

それでも、いくつか見せてもらうと、町浦・砂押・埣田・観音堂・原野などの地名があった。そして、勅使に変更されたのは「大正四年参月参拾壹日・耕地整理ニ依リ登記」とある。これは鳴瀬川の氾濫で砂礫原となった地が復興されるまで長い時間が必要だったということであろう。

 

対岸には古河ふるかわや小袋の地名があるが、これは洪水や河川改修により川道が変わったことを伝えている。また山の方へ向かうと川井の地名がある。これは川が合流していたことを伝えている。いにしえには、一帯を鳴瀬川などが自由自在に流れていたのであった。人々は長い間そうした地を美田や良い土地になるようご苦労を重ねてきていた。地名と共にそうした先人の思いも忘れないようにしたいものである。

 

お話しする人

太宰幸子

日本地名研究所理事、宮城県地名研究会会長、東北アイヌ語地名研究会会長

この記事の担当者から

今回は古川のお隣、三本木・松山のお話。まずは以前からここを通るたびに不思議だった同じ地名が隣接する謎が解けました。ちょうど鳴瀬川と新江合川の合流地点でもある今回の「勅使」という地名は、明治時代の大水害に由来していたことを初めて知り、現在まで繰り返してきた鳴瀬川の氾濫の歴史を物語っていたのでした。先人たちの苦労の積み重ねに感謝しかありません。今度通るときはそんな思いで車窓から景色を眺めてみたいと思います。

代表取締役 菅原 順一

 

このコラムは、弊社発行の「工務店ミュージアム 学びのコラム(2026年1月号)」に掲載したものです。